代田・ダイダラボッチ音頭振興委員会

イラスト:作道成美
代田・ダイダラボッチ
人間と歴史、人間と言語、この関係の本質は虚構である。仮に創っておいて、それを礎にして、表象をつぎつぎに産み出してきて今日がある。言語と歴史は表裏一体のものである。仮のものにとりあえず安住して過ごしているに過ぎない。
東京世田谷代田には「ダイダラボッチ」伝説がある。一地方の、一伝説に過ぎないものである。が、多くの学者がこれに深い関心を寄せている。一人は民族学者の柳田国男である。彼は「到底その旧跡に対しては冷淡ではあり得なかった」(「ダイダラ坊の足跡」)ことから、世田谷代田の巨人の足跡、「ダイダラボッチ」を訪れ、それが「右片足」だったことを発見する。右があれば、左もある。当然成り立つ推理だ。
世田谷には他に駒沢にもこの伝説があったことから彼はそこも踏査した。ところが「足の向いた方が一致しない」。それでかれは、「我々の前住者は、大昔かつて都の空を、南北東西に一またぎにまたいで、歩み去つた巨人のあることを想像してゐたのである」と考えた。この発見から彼はこの論考「ダイダラ坊の足跡」の冒頭の見出しを「巨人来往の衝」とした。東京荏原上空を、とんでもないほど大きな巨人がまたいで行って、足跡をつけたという驚きだ。この伝説、隣の目黒区谷畑、大岡山擂鉢山、大田区狢窪、洗足池にもある。
代田橋を架けたのは、ダイダラボッチだという伝説がある。たかだか十メートルぐらいの、しかも江戸時代に架けられたものだ。民俗学者は「巨人の偉業として甚だ振るはぬものだ」と一蹴している。そうわれらの歴史もいささか浅くなる。大和朝廷から始まる日本の歴史がちゃちに見えるほど長く遠い時間がこの背景にはある。
いつ頃の話なのか、これを示唆するのが足跡のある場所の遺蹟だ。名は「東大原」で縄文中期の包蔵地となっている。4,5千年前から人が居住していた場である。ダイダラボッチは、北方民族からの渡来言語だといわれる。ツングース系の人々がマンモスを追って南下し、この一帯にその祖先が住み着き、以来営々と口承伝承を通してこの語が受け継がれてきた。有史以前の文化と結びつく遙かなロマンだ。
「世田谷代田駅は、こんど地下に潜ってしまって地表には何も残らなくなりますね。その跡に、ダイダラボッチボッチのモニュメントを作るべきですよ。代田は、ダイダラボッチの始祖、柳田国男が言うところの『東京市は巨人伝説一箇の中心地』です。日本の歴史を遥かに凌駕する、とんでもない伝説なんですよ」
わたしは、納涼会に参加していた地元の金子美和子さんに言った。環七ができて街は分断され寂れた。今度は地表駅がなくなる。
「このままでは世田谷代田はのっぺらぼうの町になりますよ!」
わたしは、地域に訴えたい。
きむらけん